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ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ

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ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(9) -2014年4月10日-

 桜の開花の華やかさに合わせて、こどもたちは春休みになりました。どこへ行ってもこども連れの家族が群れています。百貨店、遊園地、こどもの館、科学館、観光地など、小学生まではおよそ親に付き添われて行動をしています。「こどもとたくさん遊んで、たくさん笑って」やりたい親ごころなのです。
 しかし日常、なかなか親はこどもと連れだって遊んでやるわけにはいきません。共稼きであれば、なおさらです。急用ができると、まず、こどもを預かって見てもらえる人を探さなければなりません。祖父母が近くに居て子守を頼める場合は心配ないのですが、身近に誰も頼める人が居ない場合、探す手段として最近はネットが利用されているようです。
 預かっておきながら、2歳の男児が亡くなったのに遺体を放置していたというあの悲惨な事件が起きるまでは、その方法は便利に利用されていたことでしょう。ましてキャッチフレーズに「こどもたちとたくさん遊んで、たくさん笑って」と書かれていたなら、誰も安心してその保育士さんに頼むでしょう。そこに落とし穴があるなど、見抜ける人はいないでしょう。
 ズッコケ婆さんは、小学5,6年のとき、田畑の農作業に行く間の隣の小さなこどもの子守を頼まれたことがよくありました。ズッコケ婆さんだけでなく、そのころの少し大きくなったこどもは、幼児の子守を頼まれたはずです。近所のこどもでなくても、自分より下の兄弟姉妹の面倒をみたことでしょう。しかし最近は兄弟姉妹が少ないうえに、親たちはこどもにまず、勉強をと、塾へ通わせるようになっています。近所のこどもに子守を頼みたくても、きっと、探せないでしょう。
 こういう状況は幼児をかかえている親にとって、国の対応が遅れている、というだけでは済まされない深刻さがあります。困っている若いお母さんを見かければ、時間に余裕のあるお爺さん、お婆さんは、積極的に手をさしのべられないものでしょうか。若いお母さんも頼む限り、もしも、預けた方のちょっとした不注意でこどもに怪我をさせてしまった場合、寛大な許容を持つ覚悟でお願いしない限り子守を引き受けてもらえないでしょうし、助け合いははぐくまれないでしょう。
 ズッコケ婆さんの家のこどもたちが小さいころ、夏休みになるとキャンプによく行ったものです。ズッコケ婆さんのこどもたちに希望する友達を呼びかけさせると大勢いて、大型バスで行っていました。もちろん大人同伴にしていましたが、小学5,6年生以上は友人同士でも許可をしていました。テントやキャンプファイア、調理に必要な材料の調達、蚊や蜂、まむし、など山林で噛まれた場合の医薬品の用意。付き添いの大人の方たちと相談しながら準備をすると、決行したのでした。
 今は学校のキャンプ地になって、一般の者は使用できませんが、山崎市の梯(かけはし)はすばらしいキャンプ場でした。こどもたちはテント張り、調理、それぞれ分担をして働き、大きな星が輝きはじめた空の下でわいわいがやがや、指導を受けて苦労して炊きあげた飯ごうのご飯にカレーをたっぷりかけ、夕飯が終わると、キャンプファイアの高く燃え上がる炎を囲んで歌を歌い、ハンカチ取りゲーム、肝試しなどして遊び、こどもたちは活き活きと活発でした。
 後日、「楽しかった。また、連れて行ってな」という声を聞くと、疲れも忘れて次回の約束をしたものです。しかし、そのころ、たくさんのこどもを連れて野球観戦、山登り、水泳や釣りなど企画し、実践していた方が、道中の交通事故、山登りの途中の岩場からの落下、水難などハプニングが起きて、こどもに死傷をさせてしまったということが、ときどきありました。そうなると、こどもを喜ばせたいための善意の活動も、事故のために主催者側もこどもを預けた側も不幸になってしまいます。
 その悲しみの中で、さらに補償問題がからんで、親同士の争いに進展していく結果になります。主催する側が、最善の準備をしていても、事故が起きてしまうことがあります。親はこどもを預けた時点で、もしもの事故が起きた場合の覚悟と、許容と寛大さを持って参加させない限り、醜い展開になって不幸を重ねてしまいます。
 ズッコケ婆さんの家は幸い、こどもたちに喜んでもらい、事故も無く行事を終えたものの、そういう例をテレビや新聞で見聞きすると、企画する勇気を失ったものです。
 ゴールデンウイークが近づいています。大人たちは事故への未然の防止を最善につくして、こどもたちが、元気よく、思いっきり活発に、思い出づくりをしてほしいもとズッコケ婆さんは願うのです。

 ズッコケ婆さんの小学生のときの1年3組のK先生のクラスは、名古屋在住の荒枝欽一さんと、もう、自身の高齢に向かうこともあって、閉園してしまった若草保育園の園長さんだった三木弥仁子さんが、世話役で毎年一回旅行をしています。所在が分からなかったK先生が2001年の同窓会に出席されたのをきっかけに先生を囲んで企画されたのです。
 最初はK先生が奈良在住だったことで、奈良の旅をしました。次は丹波のかくれ里へ、3回目はJR副社長だった同級生の田中宏昌さんが、名古屋駅の建設に関わったから名古屋駅見物を兼ねて、名古屋の徳川美術館行きといった具合で、つぎつぎ回を重ねて楽しんでいるのです。ズッコケ婆さんもほとんど毎回参加してきましたが、何度か都合がつかなくて、参加していませんでした。が、継続して世話をするということは大変なことです。毎回、三木さんは30人前後のメンバーに楽しい絵入りの便りで計画を届けてくれました。しかも重い園長の役職を背負って世話をしてくれていたのです。
 しかもその間に参加した人たちや、会計簿の記録も一冊のノートに残してくれていました。参加するだけで楽しんでいたズッコケ婆さんは、頭があがりません。下げっぱなしで、感謝しながら、参加しています。
 閉園を決心した彼女は、これまで仕事でできなかったことを、今、思いっきりやりたいのだと言って、驚くほど活発に行動を起こしています。マンドリ、南画(水墨画)、ギターとハードなほどの計画を立て、毎日有意義に過ごしているようです。高齢者に向かっている者とは思えないハジケ方です。とてもズッコケ婆さんは、真似ができません。
 その旅で、「昔はよかったのよ。勉強より、まず、こどもたちと仲良くしなさいと言われて、教員生活を送っていたのよ」とK先生は言われた。裏返せば、ズッコケ婆さんたちは、のんびりとゆとりある教育で成長してきたことになります。それが人生の課程で良かったか悪かったか、教育環境の変化に優劣は付けがたいものだと、ズッコケ婆さんは、考えます。
 小学校で同じ教育を受けてきたJR副社長だった同級生の田中宏昌さんなど、1984年(昭和59年)50歳を前に国連に志願をして、鉄道エンジニアとして「国連運輸部鉄道課」で働いた体験記を出版されました。国連で尊敬していた、国際化時代に通用する数少ない鉄道技術協力専門家Mさんの不慮の死に接したことが動機で、本を上梓したようです。
 一般国民のズッコケ婆さんには「国連」は遠い世界と思っていました。しかしー『国連運輸部鉄道課』の不思議な人々―という田中さんの作品は、国連の役目や内部事情、ユニークな人々の行動がユーモラスに語られているのです。国際という位置に立って働くという事はどういうことなのか、彼はいろんな角度から知らせてくれました。ズッコケ婆さんは、その作品の内容よりなにより、その本で書き記している彼の亡き友人を大切に思う優しさに感動したのです。同時に、小さいときの教育で、その優しい心情がはぐくまれていたことのアカシを知るような気がしました。もっとも、彼の優しさは生徒会長などをしていた中学生のころの言葉のはしばしすでに滲み出ていましたが。
 例えば、会社勤めをするころには治りましたが、しもやけで真っ赤に腫れ上がっていた手でズッコケ婆さんが、廊下をぞうきん掛けをしていると、通りすがりに「痛そうですね」と慰労の声かけを忘れない人でした。
 その田中さんは、6年間の国連エスキャップ(アジア太平洋経済社会委員会)の勤務を終えると帰国して、ふたたび鉄道エンジニアとして東海旅客鉄道に入社、代表取締役副社長を歴任後、台湾高速鉄道プロジェクト技術指導などして、現在はアメリカで技術指導をしているとのこと。彼の頑張りはズッコケ婆さんたち同級生の誇りでもあるのです。もちろん彼だけでなく家族を大切にしながら地域のボランティア活動をしている奈良在住の表幸男さんや幼児教育を生き甲斐に園長を歴任して退職後も大学の幼児教育の講師で、70代という高齢をものともしないで頑張っている東京在住の角田冨美子さんなどもいます。こうして、まだ現役で頑張っている人もいますが、社会的活動を終えて、余生を上手に生きている仲間もいます。そのズッコケ婆さんたちのそれぞれは、一人として同じではないそれぞれの環境の中で、いろいろな楽しいことや辛いことを体験して年月を重ねてきたのです。
 特に学校から帰宅すると外へ飛び出して遊んだ小さい頃の思い出は、何と懐かしいことでしょう。路地裏を占拠して、縄とび、ゴム跳び、手まり、べったん、ビー玉、こま回しなどなど、現在のテレビゲームとはほど遠い手製に近い遊びで夢中になって楽しんだものです。男の子も女の子も一緒に群れて遊んだのです。
 そのころ塾に行っていたこどもは、いたのかなぁー。現在のほとんどのこどもが塾へ通っている社会状況は、こどもの健全な精神を奪ってしまいはしないのかなぁー。ズッコケ婆さんは、目をつぶって、いろいろ、あれこれ考えてしまうのです。ただ、言えることは、社会へ出てから、どれだけ自分で考え、自身で如何に勇気をもって行動できるかということが、大事なんだと…。
 入学式があって、新しい新学期が始まりました。家の前を元気で通っているこどもたちがまぶしく映ります。このこどもたちの明るい未来を構築するための努力を、シバタさんや、やっぴーさんと共にズッコケ婆さんも頑張りたいものと思っています。

26.4.10シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜「こどもの王国」のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(8) -2014年3月8日-

 玄関の外に放置していたシクラメンが小さなつぼみを膨らませていました。北風が吹き込む寒い場所で、葉が重なった下で春を告げる花を咲かせる準備をしていたのです。咲くまでにはまだ何日間か、かかりそうです。
 冬季オリンピックでは、各種目の各選手のいろいろな形で感動をもらいました。特に、あの、フィギュアスケートの浅田真央ちゃん(もう二十歳をすぎていますのに、親しみを持って誰もがーちゃんーと呼びますね)の彼女自身の納得のいく演技の成功は、メダルの獲得がなくても、国民の誰もがフリーを踊り終えた瞬間感極まって、本人と共に涙し、共に喜びました。努力と信念の姿が人々の心を動かしていったのでしょう。
 子を持つ親は、自分のこどもも、やるからには伸ばしてやりたい。野球でも、サッカーでも、音楽家、画家、舞踊など芸術部門だけではなく、医者、理化学者、宇宙学者と、子どもへの期待は膨らんでいきます。そのためには勉強をさせなければと。
 ズッコケ婆さんも、こども達が小さいころ、こどもへ期待を抱いたものです。特に、長女が幼稚園のころ、紙のピアノで遊び初めて、小学校へ進学するころになるとピアノを習いたいと言った時は、喜びました。さっそく近所で教えている方にピアノを習わせることにしました。そして家でも練習が必要なことが分かってピアノの購入を夫に頼みました。高価だったのですが家業も順調だったこともあって、何とか購入できました。
 しかし、親の期待が大きすぎたのでしょうか? ピアノ教室に通い始めると一にも練習、二にも練習、練習を怠けていると叱り、ズッコケ婆さんも、中学生のとき友人に誘われて放課後音楽の先生に個人指導を受けて少し弾いた経験があることもあって、ズッコケ婆さん自身も練習を見てやるという力の入れようでした。そこまですると、こどもも嫌気がさしたのでしょう。まだ小学生のこと、他のやってみたい遊びもあって、次第にピアノへの興味を失っていったようです。
 長女は中学生の最後の音楽会にピアノ伴奏をさせてもらった後、「譜面を見ていると頭が痛くなる」と訴えるようになりました。ピアノを習いたいと言った最初の思いは消えて、決して楽しんではいなかったのです。

 芸術でも何でも、まず、才能があるかないか。そして、何処まで努力できるかどうか。大切なことの基本はそれにつきるのだと、ズッコケ婆さんは思うのです。フィギュアスケートの浅田真央ちゃん姉妹でも、お母さんは最初、お姉さんに習わせていて、妹の真央ちゃんも一緒に習わせ始めると、お姉さんより妹の真央ちゃんがどんどん能力を発揮するようになったので、真央ちゃんの方により力を注ぐようになっていったというのです。「最初はひがんでいました」とお姉さんはインタビューで答えていました。そしてお姉さんは母親の亡き後、妹を支えて励まし続けていました。ソチオリンピックでのこのお姉さんの支えは真央ちゃんに大きな力を発揮させたと言っても過言ではないでしょう。生まれ持った才能は、環境も大切ですが、自分自身が人一倍、苦渋、苦難に耐えて努力しない限り輝くことはないのです。
 長女がピアノを止めたいと訴えたとき、そこから辛抱させて継続させることも大切だったようにも思えますが、やはり、長女の性格の中に、生まれつきの才能の限界をズッコケ婆さんは、見極めていました。後の4人の妹たちも、不公平があってもいけないと考えたズッコケ婆さんは、一様皆にピアノを習わせました。しかし、我が家には音楽家に向く素養が備わっている娘はいないことを確認したのでした。誰か一人でもピアノが弾ける子が居てくれたらと、望みをこどもに託しましたが諦めざるを得ませんでした。ときどき長女の友人の娘さんが大阪からやってきたとき、ピアノを弾いてもらいますが、軽々と楽しそうに弾きます。そこからどんどん伸びていくように思えていましたが、その子も高校の進級に向かって、現在はイラストにより興味を持って、その専門学校に通っているということです。

 長男と2歳離れたこの長女は、産院のすぐ傍の河で花火大会がある日に生まれました。生まればかりの赤子は、花火が打ち揚がる爆音がドーン!ドーン!と響くたびに、ビクッ、ビクッと驚いていました。影響して神経質な子どもに育つかもしれないと、少し心配しましたがすくすくと、元気に育ってくれました。
 保育園に通うようになって、少し気になることがありました。教室の中で、みんなが輪になって踊っているにもかかわりなく、長女だけが、ぽつんと、椅子に座ってみんなのしていることを眺めているのです。協調性に欠けているように見えました。このときすでに、性格が現れていたのでしょう。大人になってもこの性格が娘を苦しめ、人生をも狂わせているように思えます。ズッコケ婆さんは、娘のこの短所のことで娘が悩むたび、話し合うのです。時には、いくら話し合っても娘を納得させられない場合は、涙を流しながらの口論になることもありました。しかし、最終的には、幾ら厭なことや、厭な人がいても、辛抱をして寄り添う努力をするように諭すことで落ち着くのでした。
 小さい頃の性格は、自分の持ち合わせた能力をも正当に発揮させてくれないことも多々あるものです。長女は本を読むのが好きでよく本を読み、国語の理解力は十分持ち合わせていながら、自分は人よりも劣っていると言い。英語会話もかなり習得していながら、自分はそんなに上手ではないと思い込む。人の後ろへ後ろへ回ってしまう。気が弱いのかと思っていると、不正な事をする事象にぶつかると、突然、誰よりも強気で立ち向かっていき、意見を述べる。

 協調性に欠けた長女は、大人の社会で、普通の人がそれほど苦にしないでいることに深く心を傷めながら、紆余曲折を繰り返して人生を歩んでいくのでしょうか。そこがズッコケ婆さんを、悩ませ、心配させているのです。
 決してネクラではなく、1対1の場合は人以上に相手のことを心配し、相手に手を差しのべて世話ができる明るい性格なのです…。最近、かなり協調性を持てるようになり、人との付き合いも上手になってきているとズッコケ婆さんは、ひいき目に見ています。このまま娘は社会に順応していけると信じられるようになっています。むしろ現在では、親である夫とズッコケ婆さんの方が面倒をかけることが多くなり-老いては子に従え-といった日常になっていきつつあります。ズッコケ婆さん自身が、しっかりしなければ!!
 この記事を書いたとき長女に掲載の承諾を得ました。これを読んで、同じように悩んでいるお母さんを勇気づけることがあるかもしれないと思い、体験談を公表することに意義を感じたからです。つくり話を書くことには心が傷みませんが、真実を公表することは、かなり悩みを伴い慎重が必要でした。長女の承諾が非常にありがたく感じました。子育ては成功だけではなく、失敗が親をも成長させてくれるようです。

26.3.8シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜「こどもの王国」のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(7) -2014年2月5日-

 大寒も過ぎると、春へ向かって暖かくなっていくのでしょうか? ズッコケ婆さんは寒さに弱く、冬はうじうじといじけて、何もしたくなくなるのです。そんなことではいけないと、奮起一転して、通学していくこども達に声を掛けるのです。
 ランドセルを背負って、上級生のお兄さんやお姉さんに引率されながら、北風の吹き下ろす我が家の前を通っていくこども達に「おはようさん」と声を掛けると、十人前後が連なっている列の中の元気な子の1人か2人だけが「おはよう御座います」と返事を返してくれるのです。
 声の出ないこどもの中には、にこっと笑って目で挨拶をしてくれる子も居るのですが、ほとんどのこどもは、恥ずかしそうにうつむいたまま通り過ぎていきます。ズッコケ婆さんは、「なんだよー。あいさつぐらい大きな声を出して行きなさいよ!」と、心の中で呼びかけながら、縮こまっているこどもにわざと近づいて「おはようさん!」と言ってやるのです。すると顔を見上げて、しぶしぶ小さな声で「おはよう御座います」と返事が返ってくるのです。
 何年も繰り返していると、その小さかった小学生の子たちが中学生になっています。そのころになると、両親にさえあまり言葉を交わさなくなるのです。ズッコケ婆さんは、そんなことお構いなくそのこども達に、同じように声を掛けます。しかし当然ながら無邪気さがなくなっています。女の子はあまり変化がなく、ほほえんで挨拶をしてくれるのですが、男の子はテレるのでしょう。儀礼上、習慣的に返事を返してきているだけのような気がし、青年になっていくなぁと感じます。
 この寒い時期は、さまざまなマラソンが各地で行われます。学校でも耐寒訓練(現在は耐寒訓練と言わないで、―かけ足のおさらいーと言われているようです。友人I.Tさんが見守りボランティアで沿道に立ちに行っていると聞いたので、現在も耐寒訓練と言っていいのか、学校へ確認を取ってもらったのです)とかがあって、学校の周辺を走っています。ズッコケ婆さんは短距離走は駄目で、運動会前日は悩みました。げっちんになるのが分かっていて、恥ずかしい思いをしなければならないからです。運動会が恐怖でさえありました。しかし、耐寒訓練は(昔の表現を使いますが)、上位で走破できましたから厭ではなかったのです。が、次女が小学生に進級した年でした。冬になって耐寒訓練があると言った日、ズッコケ婆さんは、家にじっとしていられませんでした。
 次女は長男の後、2歳離れて生まれた長女の後すぐに年子で生まれたため、母乳が不足して、虚弱体質のこどもでした。心臓未発達とも言われ、上の剛健なこどもに比較して線が細かったのです。歩くのも走るのも普通ではなかったのです。そのひ弱な次女は、耐寒訓練をみんなと同じように走れるだろうか? ズッコケ婆さんは、心配で、心配で矢も立てもたまらない思いで、家を飛び出しました。そして門を出て、学校に沿ったたんぼ道を走って運動場へ戻って来るルートの場所に立って、次女が走って帰って来るのを見届けたいと思ったのです。
 そのころ姫路市の西の位置にあるO小学校は生徒数も多く、1年から6年まで千人は超えていたでしょう。生徒が並ぶと運動場はほぼ一杯でした。その生徒が一斉に走ったか、学年別に走ったか覚えていないのですが、ともかく大勢のこどもたちが白い息を吐きながら門を走って出て、20分ほどすると顔を赤く上気させ、額に汗をかいて徐々に帰って来ました。最初に戻ってきた速いこどもたちは少なく、中間ぐらいになると塊になって戻って来ました。遅い子も少なくなって、ぽつりぽつり運動場に帰って来ました。ズッコケ婆さんは、もう終わりかけた生徒の中に次女を探しました。しかし細い小さな体の次女の姿を見つけることができませんでした。リタイヤしてしまったのかな? と、思いつつこども達が走って帰って来たたんぼ道を振り返ると、次女が一生懸命走って帰って来ているではありませんか。
 ズッコケ婆さんは、その姿を遠くに見て、泣きました。涙が溢れてきて止まりませんでした。「よくがんばった。よくがんばった」ズッコケ婆さんは、次女の背中にできる限りの大きな声を掛け、拍手をしてやりました。運動場では、次女がまだ走っていることなど誰も気づいていません。整列して耐寒訓練の終了が告げられて解散しかけていました。それでも次女は懸命に走って運動場へ入って行きました。当時は、生徒も多かったこともあって、次女の最後を見届けて下さる先生の姿もありませんでした。
 小学生だった次女はこのときのことを覚えているだろうか。小さい頃から小柄なわりに頑張りやの次女は、帰宅しても辛かったとか、悲しかったとか、一切愚痴をこぼさなかったのです。忘れ物をした理由とかで廊下に立たされたらしい時も、ある父兄の方が、「きのう『家の娘が、ヤスコちゃん長い時間立たされていて、可哀想やった』と言ってましたよ」と教えて下さったことがあった時も、一切、親には弱音を吐かなかったのです。しかし、ズッコケ婆さんは反省しました。忘れ物が無いか、ちゃんと見てやっていなかったのでしたから。
 後で分かったことですが、次女のように頑張り屋で親に話せないこどもは、一つ間違えば自殺をしかねないのです。忙しいからと放任は禁物だったのです。
 中学生2年生のときのことです。「何か思い詰めていることがあるようです」と、その兆しを担任の先生に注意をして頂いたことがありました。そのときズッコケ婆さんは、次女は何事も自分で考え、自分で何事も処理ができる子であると疑いを持っていなかった、と言うより、放任していて、未来に何をするべきか進路が見えなくて、死のうと思うほど悩んでいたなど、まったく考えも及ばないことだったのです。
 ズッコケ婆さんは、先生に作文を見せて頂き、話を聞き終わって学校の門を出たものの、ずっと、自転車を押し押し、泣きながら帰ってきたのです。幸い細い路地で、すれ違う人も居ないのをいいことに、「何と馬鹿な母親や。ごめんね。悩んでいるなんて、何にも知らんと、母親失格や、ごめんね」と心の内で謝りながら、頬に流れ落ちる涙を拭くこともしないで家まで帰ってきたのでした。
 もう中学生にもなったんだから、我慢強い子だから、世話がいらない子やからと、考えること自体誤っていたのです。何でも話し合える間柄を、日常から構築していくべきだったのです。また、家業で多忙でありながら、主人の代理でPTA役員を引き受け、何かと奔走していて、―こどもは放っていても育つもんやーとばかりに、我が子の事を放任していたズッコケ婆さんは、そのとき、言い訳をしていてすむことではないということを悟ったのでした。その後も主人の大病などがあって、放任に近い状態が続いたのでしたが、できる限り声かけを心がけたのでした。
 逆に、世話をかけすぎて子育てを失敗した例を耳にすることがありますが、親がその子に期待を掛けすぎる場合がよくないのでしょう。長女の場合、しらずしらずの間にそういう状態に陥っていったのでした。それもズッコケ婆さんの親馬鹿のなせる悪い例と言えます。そのことは、次回で書くことにします。
 本当に、ズッコケ婆さんの子育ては失敗だらけです。これから子育てをしていくお母さんたちが、ズッコケ婆さんのような失敗がないように、祈りながら、書いていこうと思います。
 先日、淡路の黒岩水仙郷へ行ってきました。何十年振りでしょう。海を見下ろす山の斜面に清楚な白い花を一面に見事に咲かせていました。以前より現在は登る斜面に階段が整備されていて、3、4歳の小さなこどもも、とんとんとんとんと、楽しそうに水仙の花の間を登っていました。お父さん、お母さんの笑顔がこどもの後姿に注がれていました。

26.2.5シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜「こどもの王国」のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(6) -2014年1月7日-

 明けましておめでとうございます。
 最近は誕生日で年齢を加えていくようになり、ズッコケ婆さんには、それが原因でお正月祝への人々の意識が薄くなったような気がしてならない。ズッコケ婆さん自身には、オーストラリアに住んで、もうかれこれ十年になる友人の娘さんから、毎年クリスマスの日に新年の挨拶が届けられる。その便りで年末の早い内に新年の意識をするようになった。その早い切り替えも一つの理由として考えられるかもしれない。まして、おせち料理にしても帰省してきた東京の娘にしろ、一男一女を伴って帰ってくる大阪の娘家族にしろ、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたというのに、あまり重箱の料理に手を付けようとしない。そうしたちょっとしたことも原因の一つかもしれない。
 元旦といえば、ズッコケ婆さんは46年前の正月を産院で過ごしたのです。初産で長男を授かったのです。夜明けに家族が餅つきの用意をしている最中に破水が起きて、急遽産院へ駆け込んだのでした。自力で出られなくて吸引器具を使用して、やっと6時間後に産まれ出てきた赤ん坊は、頭を吸引器具で引っ張られたため七福神の寿老人のように、頭が長く延びていたのです。「うわぁ! ジュロウジンさんみたいに頭の長い子やなぁ!」ズッコケ婆さんの旦那さんは、我が子と初顔合わせをした瞬間にそう口走ったようです。日を追って普通の頭の形になったのでしたが、旦那さんはかなり心配したようでした。
 予定より半月早くこの世に出てきた長男だったのですが、保育器の世話になることもなく、体重、身長、胸囲はまずまずの平均値でした。今と違って、そのころは生まれたその日から退院する日まで母親の傍へ寝かせました。24時間、母胎から出てきたわが子を、見守りながら時間を過ごせたのです。
 お産のすぐ後は、本を読んだりテレビを見たり、まして字を書くことはよくないと言い聞かされていて、若かったズッコケ婆さんは、ひたすら真横に横たわっている赤ん坊の顔を眺めて過ごしました。袖口から出している小さな柔らかい手。指先にちゃんと付いている小さな小さな爪。小さな口、鼻。あたりまえの物と思えない、神器としての不思議な存在感で母性に訴えてくるのです。光をのせた小さな瞳はまだ見えていないのだと言われても、見えているように思えて、話しかけてみたり。本能的に情愛があふれ、時の流れていることを忘れていられたのです。「これは私のこども。かわいいこども」何度も、心の中でつぶやいていました。 こどもを産んだことで、結婚することに抵抗し、母親を困らせていたズッコケ婆さんだったとは思えない気持ちの充足した正月を産院で送ったのでした。
 現在、その長男は普通の大きさで生まれたこどもとは思えない体格の大人に成長しているのです。高校入学してすぐに、体育の先生から「心臓に悪いから減量するように」と注意されるほど、肥満体質になっていました。が、大学時代はアメリカンフットボール部で怪我をした後マネージャをしていた関係か、身長が183センチまで伸びて、肥満を解消、スラリとした体格になっていたのです。ところが、大学卒業後大手S住宅メーカーに勤務するようになり、帰宅が遅くなって、夜の遅い夕飯を摂るようになったころからまた、太り始めたのです。そして中学時代に鑑賞した「カサブランカ」という映画の一場面に魅了され、そのようなパブハウスを開店するという夢に向かう決心をして、住宅会社を退社し、ヨーロッパのワイナリーを旅して帰国後に、小さなショットバーを開店させたころは、まだ、体格は普通だったのです。
 開店に当たって多くの友人達が協力してくれたのです。その中の1人で、大学生の間から店を協力してくれていて、幼稚園の先生になってからも手伝ってくれていた尚子さんと結婚し、新しいビルで本格的に営業を始めて18年目を迎えた現在は、身長は変わらないものの、100キロ近い巨漢になっているのです。
 ズッコケ婆さんは、息子を見上げるとき、いつも不思議な思いがします。初産で普通の体格で生まれた赤ん坊がこんなに大きくなるなど、想像もできなかったからです。そしてお嫁さんが減量に努力してくれているにもかかわりなく、本人の自覚が薄いように思えて、ズッコケ婆さんもついつい、「体重を減らさないと、心臓に悪いよ」と、言葉を掛けてしまうのです。子育中にジュースや甘いお菓子を一杯与えた、ズッコケ婆さんの子への食生活の注意が足りなかったことを棚に上げて。
 その息子が、やはり2年前の暮れに男の子を授かったのです。結婚11年目のこどもの誕生で、まぶしいほど、たとえようもない喜びが、こわごわと慣れない手つきで赤ん坊を抱きかかえている息子夫婦を包み込んでいました。お嫁さんもズッコケ婆さんと同じように正月を産院で迎えたことになります。ズッコケ婆さんのころと違って、赤ん坊は保育室に預け、母乳の時間だけ母親の部屋へつれて来られました。最近、産院で取り違えられて60年間分からないまま全く違った人生を送った男性2人の悲劇が報道されていましたが、そうした事故は、これまでいくらか発生していたようです。最近そうしたことが繰り返されないために、手とか足にナンバー札を括り付けられて母親の部屋へつれて来られます。
 息子達のこどもは、お嫁さんの両親にとって初孫でした。「やっと、孫のことで仲間と話ができるようになりました」と、お嫁のお父さんが言われたように、ご両親にとって娘に2人の孫が育っているズッコケ婆さんや我が旦那さんに比べれば、一言で言えない喜びが心に満ちていたことでしょう。満面の笑顔で赤ん坊に見入っていました。また、お正月を産院で過ごすことは産婦にとっても、目出度いことの重なりで、特別な気分で過ごしたものです。今年の正月も何人の人が、産院で幸せな時を過ごされたのだろう。人ごとながら、ズッコケ婆さんは、気になっていたのです。
 エッセイによく登場している11年目に生まれたこの孫は、昨年の12月28日で、はや2歳を迎えました。頭が普通の子より大きいようだという。身長もかなり高いらしい。離乳食から息子夫婦はかなり気を配っているのです。しかしその孫たち幼児が育っていく社会は、ますますグローバル化が進展して、何事もテンポが速く、何事に対しても対応が困難になっています。また、シバタさんが危惧され記述されているように、親の子育て放棄、虐待、殺害、親子の絆の希薄化などなど、大きな歪みが顕在化してきているのです。
 シバタさんは、こどもとお父さん・お母さんに対して、こどもが遊ぶこと、育つことの、時と場と環境の提供に関する事業を行い、こどもの社会的人格の形成と発達を促進し、健全なこどもの育成に寄与することを目的にした、NPO法人はりまキッズランドを2011年に創設しただけでなく、着実に「ファミリーコンサート」「芋ほり」などなど、計画を立案して実践。親子が多目的に遊べる大釜の自然の森に「大釜こどもの王国」を開園されているのです。つい最近は野球やサッカーなどできる「大釜南スポーツ広場」も完成しています。
 「第二の人生は子どものために」をモットーに、すばらしい協力者と共に活動されているシバタさんは、子育てをこれからしなければならない若い人たちには、こどもたちが健全な身体と健全な精神を宿して成長するための救い主です。事務局のやっぴーさんもまた、頼れるお姉さんにちがいありません。
 「大釜こどもの王国」の憲章には、下記のように書かれているのです。

             憲  章
     (1)命を大切にします。
     (2)仲間を大事にします。
     (3)みんなと協調し,自分勝手なことはしません。
     (4)何ごとにも精一杯とりくみます。
     (5)「明るく,元気で、素直」がモットーです。
     (6)しっかりと挨拶ができます。
       ……「おはよう」「こんにちは」「さようなら」
     (7)素直に言えます。……「ありがとう」「ごめんなさい」
     (8)使ったものは、きちんと後片付け。ゴミは持ち帰ります。

 人として基本の基本がはぐくまれていないこどもたちが、「大釜こどもの王国」に参加することで、憲章を心に染みこませてくれることでしょう。ここから明るい社会が構築されていくことでしょう。たとえ長い年月を経なければならないとしても。
 今年は午年。うまく行く年として占われているようです。誰もが幸せに過ごせる日々でありますように、ズッコケ婆さんは祈っています。

26.1.7シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜「こどもの王国」のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(5) -2013年12月17日-

 ほんとうかなぁ~⋯⋯神戸新聞の記事で読んだことなんだけど、神戸の異人館の中の一軒である風見鶏館上空で、去年の12月25日の未明に、人らしきものを載せたソリと、トナカイのように見える、いかにもサンタさんを想像させる映像が鮮明に撮影されていたんだと。ズッコケ婆さんは、そのカラー写真を穴の開くほど見ながら、また、ほんとうかなぁ~⋯⋯と、一人で呟いたのだった。
 もうすぐクリスマスがやってくる。町のショッピングではたいてい天井に届くばかりのクリスマスツリーが色とりどりの電飾もあざやかに飾られている。時にはクリスマスソングも流れていて、サンタクロウスさんの人形や長靴に入ったお菓子が店に溢れている。こどもたちはそんな光景を見て、自分にはどんなプレゼントが贈られるのだろうかと、思うのだろうか?
 ズッコケ婆さんの5人のこどもたちが小さい頃、何を欲しがっているのかそれとなく聞き知って、サンタさんへ伝えることに懸命になった。そして、真夜中にサンタさんから受け取ると、それぞれのこどもが靴下を用意して寝ている枕元へ、運んでやったのだった。このサンタさんのからくりを、4人の娘達は早くから見抜いていた。それでも知っていないふりをして眠り、贈り物が置かれるときを楽しみにクリスマスを迎えていたようだ。ところが一番年長の長男だけは小学5年生のころまで、サンタさんを実在として受け止め、クリスマスの日をわくわくしながら迎えていたらしい。はりまキッズランド事務局のやっぴーさんは、どうだったのだろう?女の子だから、やはり早くに見抜いてたんだろうなぁー。
 真実を知ってしまうのと、知らないでいるのとでは、どちらがより多く豊かな幸せを感じとれるのであろう。現在でもサンタさんの実在を信じて、北海道新聞が窓口になって、聖夜にサンタクロース捜索活動が行われるとか。夢があるって楽しい!
 宇宙開発が本格化している現在、星座への夢が薄れていっているかも知れないが、小さいこどもの純粋な心まで侵さないでいてほしいとズッコケ婆さんは願っている。ただでさえ、テレビやゲームに夢中になって、親が望まない情報まで得、びっくりするような下ネタを発して、得意になっているこども達がいるのだ。しかも低年齢化して大人達を戸惑わせている。
 12月に入って一週目の或一日「こどもをセントラルパークへ連れて行くから一緒に行かないか」と、息子から電話が掛かってきた。仕事に行っていた主人であったが、孫に会いたがっているものだから、二つ返事で「行く、行く」と言ったのでズッコケ婆さんも同行した。車で北へ40分ぐらい掛かる。セントラルパークは大釜自然の森の中にある「大釜こどもの王国」とは信号の所で丁度反対の西の方向へ曲がればよかった。
 少し風のきつい日であった。駐車場に到着すると出発どき眠そうにしていた孫は、すっかり眠りこけていた。眠ったばかりで目覚めさせるのは可哀想だということで、しばらく起きるまで待つことにした。が、閉園までの時間を考えると、そう待つわけにいかなくて起こした。当然ながら、眠りが足りないからぐずって、尚子母さんの胸にもたれて泣いていた。が、サファリーへ車を進めて、虎の姿がつぎつぎ木陰や丘陵に見え始めると「あ! あ!」と指さして目を見張った。いるいる。のっそのっそと歩いていたり、日向ぼっこよろしく、目を細めて気持ちよさそうにごろりと居眠っていたり。まだ話せない孫は猛獣を指さして、「あ! あ!」の連発だ。ご機嫌のいいこと。
 孫のお父さんとお爺ちゃんは、自動車の窓を少し開けて写真を撮り始めた。と、すぐさま「窓を開けないで下さい」拡声器から注意が飛んできた。写真を撮る者は誰でも、少しでも迫力のあるいい写真を撮りたいらしい。看板に注意が書かれてあっても、危険を承知で窓を開けるから、すぐ注意出来るように、軽自動車があちこちに配備され、見張っている。次々に見えてきたライオンにしろ、豹にしろ、サハリーパークの園に飼われている猛獣は温和しそうに見える。飛びかかってこないように思える。が、猛獣は人間が考えているほど安全ではない。<あなどらない。用心 用心>ズッコケ婆さんは、口の中でもぞもぞ言っていた。
 思った以上に象やキリン、熊やサイ、カバなど沢山の動物がゆったりした柵の中で往来していた。ゆっくり進んでサハリーパークを通過すると、「ふれあいの国」へ入って行った。そこには危険な動物はいっさい居なかった。車から降りて移動して行くと、放し飼いの大きな犬が沢山いて、孫がこわごわながら触れていた。
 面白いのはマーラだ。南アメリカに生息しているというマーラは、長い足とウサギのような耳をしている小さな動物だ。孫がお尻をぽんぽんと軽くたたくと、ぴょんぴょんと飛んで逃げる。1メートルほど逃げるとすぐ止まる。孫が後を追っかけて、また、お尻をぽんぽんとたたくと、ぴょんぴょんとまた1メートルばかり逃げる。それが楽しいのだ。孫はげらげら笑い声を上げながら追っかけてはたたき、逃げられては追っかけ、広い芝生を走り回って遊んだ。
 ズッコケ婆さんは、楽しそうに遊ぶ天真爛漫な孫の姿を見ているだけで、自身も面白く、とても愉快であった。すると、
「倖士は、お尻をたたく度に、マーラにおしっこを引っかけられてるんや」と尚子さんが言った。おやおや、おしっこを?と標識を読むと、「この動物に触れると、おしっこをかけられます」とちゃんと断りが書かれてあった。だからといって、すごく喜んでマーラと走り廻っている孫を、止めさせるのは可哀想だ。透明で、あまり臭いもしないので、しばらく傍観をしていた。十数匹が群れていたが、孫はお気に入りのマーラだけを追っかけていた。お爺ちゃんが馬に乗ろうと呼びかけるまで、笑い声を上げながら飽きることなく、楽しそうにしていた。
 お爺ちゃんは孫と一緒に馬に乗って写真を撮りたいと願った。係の人に助けてもらいながら、やっとこさ馬にまたがって孫を抱き上げようとした。が、孫は反り返って馬にまたがらない。馬を怖がっている。と、最初ズッコケ婆さんは思った。しかしこどもは正直だ。お母さんと一緒に乗りたかったのだ。お母さんに抱かれて乗るとニコリとした。
「お爺ちゃんは、倖士と馬に乗って写真を撮りたかった。だから、500円もお金払ったんや」お爺ちゃんは悔しそうに、こどものように拗ねていた。
「おじいちゃんに上手しておいた方が、いいことがあると思うよ」
係の人が、お爺さんを慰めるように言ってはくれていたが、まだ、2歳になっていないこどもには、損得の分かるはずもなく、お爺さんが諦めるより仕方のない事であった。
 やぎさん、ぶたさん、色々な鳥類。ホワイトタイガー、ホワイトライオン、孫は一日いっぱい観て楽しんだが、まだ、小さくて記憶に残っていないと思う。が、情緒を養えることは出来たにちがいない。そんな思いでズッコケ婆さんは、まだ、馬に乗って孫と写真を撮ることができなかったと、拗ねている爺さんと夕暮れの道を息子の家族と自動車に揺られて帰ってきたのだった。

25.12.17シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜「こどもの王国」のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(4) -2013年12月3日-

 一か月、一か月、めくってきたカレンダーが一枚になってしまった。こどものころは、12月に入ると嬉しかった。冬休みが近づきお正月がやってくるからである。しかし、重いほど年齢を背負ったズッコケ婆さんは、「もう、一年が終わりに近づいてしまった」と思うと、うら寂しい気持ちが湧いてくるのです。そして、この一年間に何をしてきたのだろうかと色々思い浮かべてみるのです。
 まず、目標を立てたことがちゃんとできただろうか…「できてない。できてない」にべもなく頭の中に住んでいる小人が声を張り上げます。
 まさにその通り、小人が教えてくれるように、「本」を一冊書き上げるという大きな計画は、年を越してしまうことになりました。原因はいろいろありますが、まず、やらなければならない事を、後回し、あとまわしにしてしまったことです。
 豊岡市出身の教育者で有名な故遠井義雄先生は、「たい」を一杯持ち続ける人は何事もなし得ないと言われました。テレビを見たい・友達と遊びたい・漫画を読みたいではなく、「たい」を我慢する事が大切だと。ズッコケ婆さんの今年は、「テレビを見たい」「友達とお茶を飲みながらおしゃべりをしたい」「あちこち旅行をしたい」際限もなく気分に任せて行動に走った結果、目標を達成出来なかったようです。年の暮れになって反省したところで、修正は効かない。鬼が笑いそうであるが、来年こそはと、心を引き締めている。
 前回から言い続けていた「オロ」少年についての記述を、ズッコケ婆さんは、映画を鑑賞してから、書きたいと思っていたのです。
 この映画について何も知らなかったズッコケ婆さんは、映画「オロ」って何と奇妙な題名だろうという印象をもったのです。まして、チラシやパンフレットの絵は少年の顔に太いマジックで目と鼻をなぞっているのです。どう見てもなじめません。映画を見たいとも思えませんでした。
 しかし、歌人であり児童文学作家である亡き川口汐子先生の教え子であった岩佐寿弥監督さんのドキュメンタリー映画だということに惹かれて見ることにしたのでした。
 ズッコケ婆さんの知らなかったことだったのですが、地球上で一番高い土地に生活している人たちこそチベット人なのです。標高4000mから5000mのどこまでも続く大草原の村で、オロは生まれたというのです。そのチベットは40年も前に中国の侵攻があって、チベットの人々はヒマラヤ山脈を越えてインドのネパールへ逃げて行ったのです。オロも6歳にしてチベットからヒマラヤを越えてインドに亡命したのです。
 まだ幼いオロが危険なヒマラヤ越えまでしてインドへ亡命したのは、中国の支配するチベットでは、チベット人として、十分な教育を受けられないからです。40年も前にダライラマ法王と共にインドへ亡命した難民たちの多くは、すぐにチベット本国にもどるつもりだったという。しかし、現実は厳しく、現実を受け止めたダライラマは、たとえチベット人が難民キャンプで過ごしていようとも、チベット人として育っていけるように環境を整えていったというのです。ダライラマの姉ツェリン・ドルマが先頭に立ってこども達の世話をし、世界中の援助団体の協力もあって、運営されていくようになったのが、チベット子供村(TCV)の始まりだったというのです。
 こどもたちは雪深いヒマラヤの峠を越えて不法出国するのです。峠を越えるときには、多くのこどもは重い凍傷にかかって足の指を失ったり、最悪の場合は命を落とすこともあるのです。それでも親たちは送り出すことを止めないというのです。オロの母親も同様、たった6歳のオロをインドへ送り出したのです。送り出されたオロは給料がもらえない皿洗いなどをしながら、チベット子供村へたどりついたというのです。
 一方、岩崎監督さんは、チベットに特別の関心を持っていたわけではなかったが、難民キャンプで出会ったチベット人たちの人柄に魅了されてから眼差しを向けるようになったのだといいます。そしてチベット人は顔も感性も日本人に似ているにもかかわりなく、日本人と違って、媚(こ)び、諂(へつら)い、卑屈になるという感情が生まれながらに無いように見えたというのです。―こういう人々を生む文化とは何なのだろう?―生活を背負い、逆境にあっても祖国の文化をだきしめるように生きている姿、それにひかれた岩崎監督さんが、「オロ」を主人公にした映画創りを始めるきっかけだったそうです。
 岩崎監督さんは、書かれています。
 ―亡命政府が運営する寄宿学校に主人公を探しに行った。年齢は10歳と決めていた。子供でいられる最後の歳だ。私が敗戦を迎えた歳でもある。何人もの子供たちにインタビューしたが、そんな我々を取り囲む輪の中にオロがいた。母親から離れて独りでインドに来た少年、透明でゆたかな表情が私を捉えた― ―いくら人生を設計しても、その通りの人生はない。様々な出会いが人生の方向を変える―と。
 岩崎監督さんに見いだされたとき10歳になっていたオロは映画の中で、先輩に尋ねられて答えていました。
「オロって名前は、母さんが腕に抱いて、ゆりかごのようにオロオロって、ゆらゆらゆすっていて、そのままオロって名前を付けたんだ」と、母さんが言っていたと。ズッコケ婆さんは、その説明を聞いた瞬間、何と奇妙な名前と思った最初の思いを払拭して、全く逆の思いをしたのです。
 オロって、何と素敵な名前だろう。オロオロと腕の中で揺すっていて、そのままかわいい息子の名前にしたというオロという命名。何と、母親の愛が凝縮されていることでしょう。
 現在、オロはチベット子供村に寄宿して学んでいる。チベットの伝統文化の価値を国際社会に訴え、非暴力をもって中国と対抗していくための教育を受けながら成長している。そのことを望んでドキュメンタリー映画が制作されたのだと、2012年5月に東北初の自主上映会で講演を終えた後、宿泊先の階段から落下。頭部を強打し、脳内出血で逝去した岩崎寿弥監督さんの遺稿集に綴られている。
 こどもたちの環境は、国によって如何に違っていることでしょう。ズッコケ婆さんは、映画を鑑賞した後、ため息をつきながら、「こどもたちは、どこの国で育てられても異なってはならないのに」と、誰にいうともなくつぶやいたのでした。

25.12.2シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜「こどもの王国」のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(3) -2013年11月14日-

 今年は台風の到来の多かったこと。それも大型台風だという予報にやきもきした。豪雨になれば、ズッコケ婆さんの家は浸水まちがいなし。半世紀前に建てた我が家は近隣で最も古い。建てたころは周囲が稲田で見晴らしもよく、稲刈りが終わって干上がった田んぼは、正月がくれば凧揚げなどしてこどもの結構な遊び場であった。
 年月を経るにしたがって1軒、2軒と家が建てられ、現在、田んぼは家屋で埋まってしまった。しかも新築していく家はみな土を盛り込んで敷地を高くして建てていった。お陰でズッコケ婆さんの家は周囲の家よりも最も低い土地の家になってしまった。
 15号、16号で悲惨な災害に見舞われた伊豆大島の地域の人たちのことを思えば我が家の心配は、びびたることである。しかし、ズッコケ婆さんは、37年前に80センチの浸水で泥が床を汚し、一ヶ月間2階だけの不自由な生活を体験しているだけに、台風の季節は他人事ではすまされない。台風が通過するまで落ち着けなかった。
 特に今回、27号、28号のときは、テレビにかじりついて気象予報で進路を注視していた。もし台風で大雨になれば、参加したいと思っている【大釜こどもの王国】に出来る「大釜南スポーツ広場」整備完工式が中止になってしまうに違いなかったからだ。幸い播磨南部地方は台風をまぬがれて日和になり、ズッコケ婆さんは計画通り嫁の尚子さんと孫の倖士を伴って、娘が運転してくれる車で大釜自然の森へ出発した。
 初めての訪問で、目の前に広がる自然の森の中の素朴な遊園地に、ズッコケ婆さんは最初戸惑いがあった。NPO法人はりまキッズランド「大釜こどもの王国」は4才から12才のこどもが入会の資格だと、創設者のシバタさんが言われていた。その通り、幼児を遊ばせられる所ではなさそうであった。1歳9ヶ月の孫を連れて行ったことを後悔したのだった。しかし、「おいしい焼き肉弁当や焼きそばが振る舞われる」のだと、張り切ったシバタさんがニコニコしながら公言されていたので、その食い意地の方で出かけて行ったことでもあったのだ。ズッコケ婆さん4人連はまず、焼き肉弁当を食べてから帰ることにして、とどまった。
 その内、NPO法人はりまキッズランドの会員さんの親子連れと大釜自治会の役員さん、そして村の人たちなど全員で200名近い人が集まっている前で、シバタさんのスポーツ広場の完工式の挨拶が始められた。
 新しく出来た白砂が撒かれているかのような、真っ白なグランドは周囲が網で囲まれていて、こども達が思いっ切り野球、サッカー、ドッチボールなど安心して競技が出来るようになっていた。ここでスポーツに興じるこどもたちは、健全な体と、こころが養われていくにちがいないと、ズッコケ婆さんは確信を持った。それに木々に囲まれたグランドは車の排気ガスなどみじんも感じさせない、空気の美味しい環境なのだ。そこで汗を流して時間を過ごすこどもたちが、健全に成長しないはずが無い。
 簡単な式が終わって、ブランコが好きな孫を、自然の樹木にぶら下げて造られているブランコに乗せてみた。大きなブランコであるにもかかわりなく孫は恐れもしないで、嬉しそうに揺らすのだった。そこから違う遊具へ移動するときに、切り株につまずいて孫は転んだ。泣き始めた。その時もやはり小さな子には無理だったと思った。が、すぐに立ち上って泣き止んだので、太い縄で作られたハンモック風のアスレチックに乗せると、満面の笑顔で上部へ登って行くのだ。かなりゆらゆら揺れているにも関わりなく恐がりもしないで、上へ、上へ登って行く。下から見守っているズッコケ婆さんの方が、むしろ揺れるハンモックを飛び越えて孫が地面に転がり落ちそうに思えて、悲鳴をあげそうであった。小学生のお兄ちゃんやお姉ちゃんが乗ってくると、いっそう揺れ出した。それでも孫は必死で綱にしがみついて、嬉しそうにしているのだ。
 滑り台の太い丸太で出来た階段。小さな足では登れないと思っているのに、手でしっかり掴まりながら登っていくのだ。さすがに放っておけないので母親の尚子さんが後ろから付いて上がっていたが、結構楽しんでいるのだ。心配なかったのだ。親が付き添ってやれば、こんな小さな子でも楽しめるのだ。良かった。良かった。何の心配もいらなかったのだ。その時にはズッコケ婆さんまで、孫の喜ぶ姿を見て嬉しくなってしまった。
 「この広場は、周りの樹林と同じやった。木を切り倒して切って、地面を平らにしていったのや。村の人たちやボランティアの人たちの協力がなかったらできていない。それは大変やった」感慨深げにシバタさんが話された。
 遊具もテーブルもイベント用の舞台も自然の木々がふんだんに利用されて出来ている。その空間で、小学4年生以上のこどもたちは、最初にリーダーのお兄さん達に私設公園でのルールを教わってから、遊び始めていた。コンクリートの遊具ではなく、ぬくもりのある木の遊具は、こども達の体を鍛えるのにマッチしているに違いない。こども達の楽しそうなこと。飛びはね、走り、目がいきいきしていた。ここから、シバタさんの望まれている元気で礼儀正しいこども達が成長していくことでしょう。我が孫も早く入会資格が得られる年齢になって、入会させてもらいたいものだと思いながら公園を後にしたのであった。
 チベットの少年オロのお話より先に、大釜自然の森を訪問した話になってしまいましたが、「大釜南スポーツ広場」が完成したことでもあるから、一人でも多くのこども達が「大釜自然の森」へ訪れてくれたらなぁーという思いがあって、先に書きました。

25.11.14シバタさん、やっぴーさん、そして
大釜こどもの王国のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(2) -2013年10月17日-

 テレビを見られた方もあるだろうか?
「志村どうぶつ園」という番組で、象が出産する瞬間を撮った映像を!
偶然かかった番組に象が今まさに出産しようとしているところが放映されていたのだ。
ズッコケ婆さんは、「へ~え テレビタレントの志村けんさん動物園をつくっていたんや。よー儲けてやから、動物園をつくれるんやろなぁ」と思いつつ写されていく出産するという象を、夕飯の料理を作る手を止めて、興味ぶかく見ていたのです。
 最近、ドラマとかドキュメンタリーで女性が夫に手を握られて出産する場面が取り入れられるようになった。男性にこどもを産むときの大変さを理解してもらうためとか。
そういう社会の流れもあって、女性がこどもを産むことは、命がけであることが、出産の経験の無い男性とか女性にも理解されるようになっている。しかし、これからこどもを出産する未婚の女性には、あの汗の吹き出た顔で、奇声を上げながらもがき苦しみながら出産するシーンは、ショックを与えてしまいはすまいか?ズッコケ婆さんは心配してしまうのです。しかし産院ではそれを事実として理解させ、準備指導をしながら、恐怖を取り除いて出産させるので、心配ないでしょう。まして産婆さんの手で取り上げていた時代と違って、恐怖心を起こさせない明るい部屋での出産ですから、安心して出産に望めることでしょう。
 さて、映像に映っている巨体の象がこどもを産むのです。見たことがない映像が画面に映し出されていきます。ズッコケ婆さんは、「ああ、こんなに大きな象さんでもこどもを産むときは、苦しいんだ」と、思いながら見つづけていました。
 苦しいんでしょう。大きな巨体をごろりと横たえるとすぐ立ち上がり、狭い室内を苦しみを紛らせるかのように右往左往していると、また、ごろりと横たわり、また立ち上がり、その繰り返しです。「早くでてこい。早く!」ズッコケ婆さんは、映像に向かって祈っていたのです。そして間もなく巨体の後部からぽとりと産み落とされた瞬間は、体を硬くして見守っていたズッコケ婆さんの緊張がほぐれ、感動していました。
 出産を控えて、番組では獣医さんの待機?とか撮影の準備をしていたようですが、たまたまだれも居ない真夜中に出産が始まって、無事出産したのです。テレビの画面では「初めてみる象の出産です」賑々しく、何度も興奮しきったアナウンサーの声に志村さんやゲスト出演のタレントさんたちが真剣な顔で見守っていました。それもたまたま防犯カメラが撮っていたという薄暗い空間でのモノクロの映像でしたが、ズッコケ婆さんも胸を熱くしながら見守っていたのです。
 その夜、現在夫と長女の三人家族になっている夕飯を囲みながら、その話を持ち出すと長女が「志村けんさんが動物園を造っているのではなく、「志村どうぶつ園」っていう番組で、もう十年ぐらい前からある番組やで」と言ったので、そのことでもズッコケ婆さんは驚いたのでした。この番組を見られた方も居られることでしょう。小さい体、大きい体、関係なく出産する瞬間のドキュメントはいい知れない感動を呼びます。ズッコケ婆さんは自身も現在ではめずらしがられる5人のこどもを授かったのですが、同じ産院でも、出産する瞬間は一人一人異なっていたのです。もっとも気候も時間も、大きく捉えると社会環境もそれぞれ違っていたことは当たり前なことです。こうしたこどもが各人個性をもって成長していったのはまた当然のことです。
 次回はズッコケ婆さんのこの生まれたこどもたちがどのような環境で社会とつながり、どのようにして成長していったか、思い出しながら書いていこうと思います。11年目に生まれた息子夫婦の今年の暮れで2歳になる孫と、最近見たドキュメンタリー映画チベットの6歳だった少年「オロ」の物語を交えながら綴っていくつもりです。

25.10.15これからお世話になるシバタさん、やっぴーさん、そして
大釜こどもの王国のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

ズッコケ婆さん大釜こどもの森で遊ぶ(1) -2013年10月1日-

 はじめまして、10月より大釜自然の森に造られているこどもの王国へ遊びに来たズッコケ婆さんです。中背中肉のどこにでも見かけることができる十人並みの顔をした70歳を過ぎたズッコケ婆さんです。
 ズッコケ婆さんは、〖NPO法人 はりまキッズランド〗を設立されたシバタさんに、「こどもたちが成長していく上で、どういう事が大切か」ということについて、何か書いて下さいと頼まれてしまいました。
 現在、経済発展を遂げた平和で豊かな社会に成長した日本で、何故、こどもたちの環境が、歪められていくのか。良しにしろ悪しきにしろこどもの環境の変化の理由は複雑で枚挙にいとまがありません。そこで少しでもこどもたちの環境をよくするためシバタさんを中心に、多くの大人たちが知恵を出し合い協力し合って、多角的に試されようとしています。大釜の自然の森に=こどもの王国=を設営されているのもその一端でしょう。
 息子嫁に紹介を受けてお話を伺ったシバタさんの信念と実行力に共鳴したズッコケ婆さんは、エッセイ依頼を二つ返事でお引き受けしたのでした。が、どこまでお応えできるか、今は不安が胸を圧しています。
 書かせて頂くに当たって、最初に少しズッコケ婆さんの簡単な自己紹介をさせて頂きます。
 姫路市西端の浜に近い網干という町で生れた婆さんは、娘のころ、7歳のときに、小説家になることを望んでいたという亡き父親を理解したいがため、それまで8年間働いていた東芝を退職して、作家の家のお手伝いさんを志願して上京しました。そして、住み込んで働いたところは、当時ユーモア作家として有名だった獅子文六という作家の邸宅でした。丁度、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)でした。その作家の邸宅で働いたのはたった一年余りでした。母親の要望に従ったものの、後ろ髪引かれる思いでおいとますると、帰郷してきました。
 帰郷後は、ズッコケ婆さん自身も小説など書く勉強を始め、書いては色々な募集に応募するようになっていました。しかし、母の希望もあって鉄工所を経営している人と結婚しました。28歳での結婚でしたが、9年間のあいだに男の子一人と女の子4人のこどもを授かったのです。5人のこどもたちは、現在、既婚、未婚ながら、それぞれ社会人になって働いています。
 ズッコケ婆さんは、そのこどもたちを夫と共に、祖父母や近隣の人たちの助けを受けながら、どのように育ててきたのか、過去を振り返りながら、未来を見据えてエッセイを書いて行きたいと思います。
 そこに、共鳴や参考にして頂ける事柄があれば幸いです。
 まずはお手柔らかに、お付き合い下さいますようお願いして、今日はこの辺で失礼致します。

これからお世話になる事務局のやっぴーさんと、
大釜こどもの王国のみなさんへ

エッセイスト 福本 信子

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